プロフィール

こむらさき雅史
1974年3月 兵庫県小野市生まれ(44歳)
家族:妻、2男1女
・生駒市長
・前・立命館大学「霞塾」客員講師
・NPO法人プロジェクトK(創設メンバー、元副代表理事)

 

 


誕生〜小学校時代

「こむらさき」という珍しい苗字のこと 

  • 「こむらさき(小紫)」という苗字は珍しいですが、私の実家がある兵庫県小野市周辺には比較的多く、実は奈良県とも縁の深い家系です。
  • 奈良県御所(ごせ)市を地盤とする巨勢(こせ)氏という家系があります。巨勢氏の荘園(所有地)が私の実家近くにあったようで、「こむらさき」姓の方がたくさんおられます。付近の地名も「こせ(古瀬)」といいます。
  • どうして、「こせ(巨勢)」から「こむらさき(小紫)」になったかといえば、聖徳太子の冠位十二階の制度ができた時、巨勢氏が「小紫」の冠を賜ったことに由来するようです。

  

1974年 誕生 ~ 幼稚園時代

  • 兵庫県小野市で生まれる。体重は3750グラム。
  • 父・母・祖母・姉・妹・私の6人家族。
  • 緑豊かな神戸市のベッドタウンで元気に成長しました。

  

 

1980年 小学校入学 

  • 5歳で始めたそろばんを熱心に練習し、2年生の時に兵庫県大会で第1位となりました。おかげで、浪速のモーツアルトことキダタロー先生とテレビで共演できました。
  • 将棋、テレビゲームにはまり、両方とも市内の大会で3位。
  • 運動は水泳とソフトボールをよくしていました。小学校の水泳大会で平泳ぎ3位。プールに通いつめていたら、夏の日焼けコンテストで優勝したこともあります。
  • 6年生の時に児童会長を務めましたが、真面目一色でもなく、草野球、けいどろ、缶けり、田んぼでザリガニ採り、蝉採り、秘密基地つくりなど、中学受験もせず、遊びつくした楽しい6年間でした。

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1983年 中学校入学 

  • 部活は悩んだ末、卓球部。団体戦メンバー(ダブルス)に選ばれ、新人戦では市内大会で優勝しましたが、最後の大会では準優勝で悔しい思いをしました。
  • 塾にも行き始め、真面目に勉強し始めた中学校時代。友達と一緒に地元の公立高校に行くか、地元を離れて私立の高校に行くか、ちょっとした人生の決断をしました。

 

1986年 白陵高等学校(兵庫県)入学 

  • 地元を離れ、私立高校に入学。校則がとても厳しい学校で、高校生なのに丸刈り。
  • 厳格な規則と管理がある寮に入りましたが、寮生たちは規則の隙間を縫って楽しく過ごしていました。
  • 寮のご飯はあまりおいしくなく、夜食のカップラーメンが必需品。そのため、寮の基本通貨は日清カップヌードル。
  • 教師に日本柔道界でも相当の実力者がおられたことから、プールはなく、代わりに柔道場がありました。夏も冬もずっと柔道。女子学生も柔道。体育とは別に柔道という科目がありました。
  • 生徒会役員、寮長、卓球部、将棋部などに属していました。
  • 歴史のゲームや小説、地図を読むことが好きだったので、社会(地理・日本史)はよく勉強し、成績も伸びました。
  • 大学受験は社会の配点が大きい東京大学を目指しましたが不合格。気を取り直して受験した一橋大学法学部の後期日程で合格できました。

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1992年 一橋大学 入学 

<入学当初>​

  • 晴れて一橋大学に入学。高校2年生までは、一橋大学という大学があることすら知りませんでしたが、本当に素晴らしい大学で過ごすことができたと感謝しています。
  • 高校時代から、クイズ研究会+弁論部+水泳「サークル」の掛け持ちをしようと強く心に決めていましたが、一橋大学には体育会の水泳「部」(これも厳密に言えば「水球」部だと入部後わかる)しかないことが判明。週6日の練習のため、クイズ研究会と弁論部の夢は潰えました。

 

<大学生活の大半を占めた水球>

  • 春は4月から水温15度を切り、夏は35度に迫るプールで週6回練習しました。ポジションはゴールキーパー。3年秋にレギュラーになり、東京都の国公立大学の大会で準優勝したのが良い思い出です。
  • 受験で10㎏増えた体重は夏休みまでに元通り53㎏まで減り、その後筋肉がついて卒業時には60㎏になりました。人生で一番かっこいい体だった栄光の時期です。
  • 2年生の春に、国家公務員試験の勉強などとの兼ね合いで悩み、退部を考えましたが、当時のキャプテン(この方も公務員志望)の話を聞き、水泳部を最後までやり遂げようと決めました。16人いた同期は卒業時には7人になっていました。
  • 水泳部時代は毎日泳いでいたので、全然知らないおじさんやおばさんから声をかけられるほど真っ黒に日焼けしていました。しかし、そんな私よりも日焼けしていた人が部内におり、日本は広いと痛感しました。

 

<国家公務員を目指して>

  • 国家公務員になろうと思ったのは、高校2,3年生頃からだったと思います。これだけはあまり悩むことなく決めていました。
  • 現役の4年生の公務員試験は、最後の試合が終わった次の日でした。最後の試合の日は水球界、いや、日本スポーツ界の歴史的な日で、日本体育大学水球部の20年間続いた連勝記録がストップした日でした。その瞬間を見届けることもできず、試験勉強の追い込みをしましたが、残念ながら筆記試験で不合格となりました。
  • 留年させてもらったので、次の1年は毎日12時間以上勉強しました。その結果、2年目の試験は無事合格。官庁は、前年度の訪問で好印象を持っていた環境省に内定をいただき、お世話になることとしました。

 

<その他>

  • 家庭教師、パン工場の夜勤、乾電池工場の夜勤などのアルバイトもやりました。
  • 勉学面で語ることは少ないですが、早稲田大学政経学部の田中孝彦教授のゼミに所属し、国際関係を学んでいました。兄貴のような素敵な先生でした。授業で印象に残っているのは行政法の原田尚彦先生。彼の著書「行政法要論」だけは真面目に読みました。
  • 一つだけ後悔しているのは英語。これだけは在学中勉強しておけばよかったと思います。後にとっても苦労することになりました。
  • 本当に人に恵まれた5年間でした。また、学費や生活費を支援してくれ、留年までさせてくれた両親には本当に感謝しています。

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1997年 環境庁(現・環境省)に入庁

  • 環境庁は小さな役所ですが、前向きなエネルギー(新しい政策を創っていこう)にあふれ、若手に活躍の機会を与えてくれる風通しの良い役所でした。
  • 労働環境の悪さなどの問題もありましたが、先輩、同期、後輩にも恵まれ、本当に素晴らしい15年間を過ごしました。
  • スキューバダイビング、山登り、キャンプ、国立公園めぐりなど、環境省ならではのプライベートも満喫しました。

 

<環境省時代に手がけた主な実績>

  • ハイブリッド自動車の税制優遇

 仕事を始めた年に、地球温暖化京都会議があり、トヨタ自動車のプリウスなどのハイブリッド自動車が発売されました。ハイブリッド自動車の普及を促進するため、経済産業省や国土交通省と連携して、自動車取得税の軽減を実現しました。

  • 我が国初となるローソンやモスバーガーとの環境自主協定の締結(レジ袋の削減など)

 年間300億枚が消費されるレジ袋の削減のため、ローソンやモスバーガーと環境省との協定を締結するなど、民間企業と連携した取組を積極的に進めました。

  • 環境省を変える若手職員の会(3Rプロジェクト:代表)の立ち上げ

 労働環境のひどさをはじめとする課題を改善するための若手の改革提言をまとめる活動を立ち上げ、代表に就任しました。活動は、新聞にも取り上げていただいたほか、小池百合子環境大臣(当時)お手製の豚汁をいただきながら、大臣に環境省改革の提言をプレゼンしました。

 

2002年 シラキュース大学(米国)マックスウェル行政大学院に留学

  • 環境省在職中に、JICA(独立行政法人国際協力機構)のご支援を得て、米国ニューヨーク州にあるシラキュース大学のマックスウェル行政大学院に留学しました。この大学院は、行政経営学ではハーバード大学のジョン・F・ケネディスクールなどを抑えて全米トップの評価を得ています。

http://grad-schools.usnews.rankingsandreviews.com/best-graduate-schools/top-public-affairs-schools/public-affairs-rankings?int=997808 (USNEWS:英語)

  • 印象的だった授業は、マーケティング、広報、財務諸表分析など。日本の行政にどのように生かせるかを考えながら勉強するのが楽しかったです。
  • 留学中の夏休みを利用して、1か月間、太平洋の島国パラオの国際サンゴ礁保全センターで泊まり込み、インターンをしました。インターンでは、同センターの活動内容や併設する水族館の経営改善に関する業務分析・コンサルティングをしながら、パラオ共和国の今後の在り方に関する政策提言を実施しました。
  • インターンを通じて、パラオの副大統領、司法大臣、国会議員、商工会議所、NPOなどにインタビューなどを行いました。パラオの人々と自然に魅了された1ヶ月でした。
  • 渡米直後に同時多発テロ(9.11)を経験しました。大学院のOBOGには米国政府(ペンタゴンなど)に勤める者も多く、犠牲者も少なくありませんでした。言葉にならない雰囲気がキャンパスを包んでいました。
  • 休みには、テントを担いでたくさんの国立公園を訪問しました(「地球の歩き方」にも投稿を載せていただきました)。私のお勧めは、イエローストーン国立公園。ここは、家族を連れてもう一度訪れてみたい場所です。
  • 2004年6月に卒業しました。MPA(行政経営学修士)とMA(国際関係学修士)の学位を得ました。卒業式ではビル・クリントン前大統領と直接お話しすることができました。

 

2007年2月 米国ワシントンDCにある日本国大使館に勤務

  • 外交官(環境・エネルギー担当)として、オバマ政権下の政府関係者、企業、シンクタンクなどからの情報収集や、日本政府からの情報発信等に尽力しました。
  • 大使館勤務時代には、次男が米国の病院で誕生したり、オバマ大統領の誕生に立ち会えたり、現地の国営ラジオに出演したり、素敵なベビーシッターさんと知り合えたり、大変でしたが素晴らしい3年間でした。

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2004年秋 霞が関を変える若手の会(NPO法人プロジェクトK:副代表理事)

  • 本業の環境省での仕事以外に取り組んだのが、NPO法人プロジェクトKの活動です。留学中に感じた霞が関や日本社会の課題に提言し、行動を起こそうと、平成9年に国家公務員となった同期とともに活動を開始して、副代表を務めました。
  • 著名人を招いたシンポジウム、各種勉強会、先進的自治体訪問等が主な活動。NPO法人を立ち上げ、活動の成果を3冊の著書にまとめて出版しました。

 http://projectk.jp/ (NPO法人プロジェクトKウェブサイト)

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なぜ生駒にやってきたのか?

私が、生駒市副市長の公募に応じ、前職を辞めて生駒にやってきたのにはいくつかの理由があります。

  1. 生駒の人とまち

生駒市民による100円商店街の取組や、市民が中心になって策定した生駒市環境基本計画などをネットで知り、その市民力の高さに感銘を受けました。このような市民がいる街なら、ともにいろんなことに挑戦できる、可能性が広がると確信しました。
山下前市長をはじめとする生駒市の取り組みにも興味深いものがありましたし、12万人というちょうど良い規模感や、生駒山や谷田丘陵に囲まれた緑豊かなまち、歴史にも恵まれた地域であることも、仕事のやりがいや家族との生活を考えた時に大きなプラスの要素でした。

  1. 市町村の業務のスピード感と総合力

国家公務員として働く中で、最大の不満は各省の縦割りでした。
ある課題を解決するためには、いろんな切り口から総合的に対応するのが効果的(例えば、福祉の課題は、福祉だけでは対応できず、交通、住宅、医療などとの連携が不可欠)ですが、縦割りのために各省がつぶしあっていて、物事が前に進まない。当然スピード感もありません。
しかし、市町村では、いろんな部署への異動があり縦割り意識はそこまで強くありません。
ある程度の縦割りはありますが、市長の権限が強く、部や課を超えた対応を指示したり、対立を調整することができます。
市町村は、ベンチャー企業並みのスピード感を発揮し、社会をリードしていくこともできます。市長のリーダーシップが強力な生駒市であれば、スピード感と総合力が高いだろうと感じました。

  1. 人とのコミュニケーション

私は、ひととのコミュニケーションが大好きです。どんな人からも学ぶことはあります。
信頼できる、エネルギーあふれた前向きな市民や職員を見つけ、具体的な企画などの形で実現させることが市町村行政の醍醐味であり、自分に向いていると思いました。

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